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夫の葬儀で、死んだはずの彼から電話がきた ~「棺を開けるな」その一言から始まる財閥復讐婚~
夫の葬儀で、死んだはずの彼から電話がきた ~「棺を開けるな」その一言から始まる財閥復讐婚~
Author: 常陸之介寛浩

第1話 棺を開けてください

last update publish date: 2026-08-11 08:57:19

「その棺を、今すぐ開けてください」

 喪主である私が最後の花を手向けようとした、まさにそのときだった。

 重い扉が開く音とともに男の声が礼拝堂を横切り、久瀬家の親族も、巨大企業グループの重役たちも、夫の死を嗅ぎつけて集まった報道陣も、一斉に後ろを振り返った。

 六月の雨を黒い髪から滴らせながら立っていた男は、弔問客には見えなかった。黒いスーツこそ身につけているものの、ネクタイは緩み、濡れた革靴には泥が跳ね、なにより、死者を悼むために来た人間なら玄関に置いてくるはずの怒りを、隠そうともせずに目の中へ残していた。

 私は、その顔を写真でしか知らなかった。

「久瀬、朔也……さん」

 私の夫、久瀬冬真の異母兄であり、八年前に久瀬家から追放された男。久瀬グループの医療部門で起きた情報漏洩事件の責任を問われ、取締役の地位も、保有していた株式も、家族と名乗る権利さえも奪われた人だった。

 義母の雅世が、私のすぐ隣で息を呑んだ。けれど、その動揺はほんの一瞬で、彼女は葬儀の始まる前に私へ言ったときと同じ、背筋まで凍らせるような声を取り戻した。

「警備は何をしているのです。この男を外へ出しなさい。冬真の葬儀を、これ以上汚させないで」

「汚しているのは俺じゃない。棺の中にいるのが誰なのか確かめもせず、三十分後には焼こうとしている、あなたたちのほうだ」

 朔也は歩き出した。警備員が二人、左右から腕をつかもうとしたが、彼は暴れることも怯むこともなく、濡れた上着の内側から一枚の紙を取り出した。

「久瀬冬真は、この棺には入っていない」

 礼拝堂に、ざわめきが走った。

 最前列に並んでいた取締役たちは互いの顔をうかがい、後方ではカメラのシャッター音が雨粒のように重なった。誰かが配信を始めたらしく、広報担当者が青ざめて制止に向かったけれど、一度外へ流れた言葉は、もう久瀬家の力でも棺へ戻すことはできない。

 私は白百合を握ったまま、朔也を見つめた。

「どういう意味ですか」

「言葉どおりの意味です。そこにいるのは弟じゃない」

「冬真は四日前、久瀬グループ所有のクルーザーで事故に遭いました。海上保安当局が船内から遺体を収容し、歯の治療記録と所持品で本人だと確認したと、私は説明を受けています」

「説明を受けた、ですか。あなた自身は確認していないんですね」

 喉の奥が詰まった。

 事故を起こしたクルーザーでは、燃料に引火したあとも二時間近く火が消えなかった。遺体は損傷が激しく、対面は勧められないと、義母にも、久瀬家の顧問弁護士である高遠敬吾にも止められたのだ。

 愛していた人の最後の姿を、無理に記憶へ焼きつける必要はない。笑っていた冬真だけを覚えていればいい。そう言われたとき、私はそれを優しさだと思った。

「澪さん、この男の話を聞く必要はありません」

 高遠が私と棺の間に立った。冬真とは小学生のころからの友人で、結婚式では、新郎より先に泣いて皆を笑わせた人だった。今はひどく疲れた顔をしているものの、私を見る目には、あの日と変わらない気遣いがあった。

「朔也さんは八年前から久瀬家を恨んでいます。冬真が後継者に指名されてからは、根拠のない告発を何度も繰り返してきました。今日のことも、その延長です」

「根拠なら、ここにある」

 朔也は紙を持ち上げた。

「遺体の検案記録です。左前腕に固定金具なし、骨折痕なし。ところが冬真は十七歳のとき、スキー事故で左腕を複雑骨折し、九センチのチタンプレートを入れている。六本のネジで骨に固定されたままのはずだ」

 高遠の頬が、わずかに引きつった。

「そのプレートなら、昨年九月に摘出手術を受けています。医療記録にも残っています」

「なら、その医療記録を出してください。担当医の署名と手術映像を添えて」

「個人の医療情報を、このような場所で開示できるはずがないでしょう」

「本人は死んだことになっている。しかも、身元確認に疑義が出ているんですよ。できないんじゃない、出したくないんだ」

「いい加減にしろ。君はいつもそうやって――」

「待ってください」

 自分の声とは思えないほど低い声が出た。

 高遠が振り返り、義母は、私が口を挟んだこと自体が信じられないという顔をした。葬儀が始まってからの私は、求められるままに頭を下げ、差し出された手を握り、夫を亡くしたばかりなのに立派だと褒められるたび、ありがとうございますと答えていた。そんな人形が、急に自分の言葉を持ったように見えたのだろう。

「昨年九月に、冬真が腕の手術を受けたというのは、本当ですか」

「澪さん、あなたは今、正常な判断ができる状態ではありません」

 高遠は声を和らげた。それは優しさの形をしていたが、質問への答えではなかった。

「冬真は仕事のことを家庭へ持ち込まない人でしたから、短い入院について、あなたに話していなかった可能性はあります。夫婦だからといって、すべてを共有しているとは限りませんし、そのことを今ここで責めても――」

「今年の一月、私たちはシンガポールへ行きました。空港の保安検査で冬真の左腕が反応して、本人が係員へ説明しているところを、私は隣で見ています。ホテルに着いてからも、『昔の怪我にいつまで足を引っ張られるんだろうな』と笑いながら、左腕の傷をさすっていました」

 思い出した途端、白百合を握る指先に力が入った。

 あの夜、冬真は私の膝を枕にして、次の長期休暇には仕事の電話が届かない島へ行こうと言った。私は、あなたが電話を置いてこられるならね、と笑った。彼は少しだけ考え、では島へ着く前に海へ捨てようと答えた。

 その人が、冷たい棺の中にいる。

 そう受け入れなければならない四日間だったのに、今度は、棺の中にすらいないかもしれないと言われている。

「高遠さん、冬真は本当に手術を受けたのですか」

「それは……私が一月以降の経過まで把握していなかっただけです。昨年九月に一度摘出を試みたものの、事情があって中止したのかもしれません」

「医療記録があると、今おっしゃいましたよね。手術を受けた記録なのか、中止した記録なのか、どちらですか」

 高遠は答えなかった。

 義母が私の手首をつかんだ。長い爪が食い込み、白百合の茎が小さく折れる音がした。

「澪さん、やめなさい。報道陣の前で身内を疑い、久瀬の名に泥を塗るつもりですか。あなたは冬真の妻として、静かにあの子を見送ればいいのです」

「お義母様は、棺の中にいるのが冬真ではなかったとしても、予定どおり火葬するおつもりですか」

「そんなはずがないでしょう。中にいるのは冬真です。母親の私にはわかります」

「見ていないのに?」

 言ってしまってから、礼拝堂がひどく静かになっていることに気づいた。

 義母の顔から表情が消えた。怒鳴られるよりも、その静けさのほうが恐ろしかったが、私はもう目をそらさなかった。三年前に久瀬家へ嫁いでから、彼女に逆らえば冬真を困らせると思い、飲み込んできた言葉はいくつもある。けれど、その冬真がどこにいるのかさえわからない今、私はいったい誰のために黙ればいいのだろう。

 朔也が、警備員につかまれたまま口を開いた。

「火葬を止めて、DNA鑑定をしてください。結果が出るまで俺はここから動かないし、必要なら警察にも、記者にも、俺が持っている記録を全部渡す。それで中の遺体が冬真だと証明されたら、俺は弟の棺の前で土下座して、二度とあなたに近づかない」

「証明されなかったら?」と私は尋ねた。

「そのときは、久瀬家の全員を疑ってください。俺も含めて」

「自分も、ですか」

「俺だけを信じろと言う人間から、最初に疑うべきです。あなたは今まで、そういう人間に囲まれすぎた」

 腹立たしい言い方だった。初対面のくせに、私が何も考えずに久瀬家へ従ってきたと決めつけられた気がしたし、同時に、言い返せない自分がもっと腹立たしかった。

 私は棺へ顔を向けた。白木の蓋には、冬真が好きだった白薔薇と、私が選んだ淡い青の紫陽花が敷き詰められている。あと三十分もしないうちに、それらも、夫かもしれない誰かも、骨と灰になる。

「火葬を止めます」

 口にすると、義母の指が私の手首から離れた。

「澪さん、自分が何を言っているのかわかっているの?」

「わかりません。私は四日前から、なにが正しくて、誰を信じればいいのか、何ひとつわからないままです。でも、わからないからこそ、燃やしてしまってからでは遅いんです。中にいるのが冬真なら、私は夫に謝ります。最後の別れを疑いで汚してしまってごめんなさいと、何度でも謝ります。それでも、夫ではない人を冬真として焼き、そのまま真実まで灰にするよりはいい」

 高遠が私の肩へ手を伸ばしかけた、そのときだった。

 喪服のバッグの中で、携帯電話が震えた。

 こんなときに誰だろうと思ったのは、ほんの一秒だけだった。画面に表示された二文字を見た瞬間、心臓が大きく跳ね、礼拝堂も、棺も、目の前にいる人々も、すべてが遠ざかった。

 ――冬真。

 夫の名前だった。

 事故の翌朝から何百回とかけ続け、そのたびに圏外を告げる音声へ切り替わった番号が、今、私を呼び出している。

「出るな」

 朔也が言った。

 私は彼を見た。

「どうしてですか」

「その電話に出る前に、スピーカーへ切り替えて、警察を呼んでください。あなた一人にだけ聞かせたい言葉なら、たぶん、あなた一人を動かすための言葉です」

「あなたに、そんなことを言われる筋合いはありません」

 通話ボタンを押し、震える手で携帯電話を耳へ当てた。

「もしもし」

 しばらくは、雨のような雑音しか聞こえなかった。

「冬真なの? お願い、何か言って。あなたはどこにいるの」

『……澪』

 間違えるはずがなかった。

 眠る前に私の名を呼ぶ声も、仕事で嘘をつくときだけ少し低くなる声も、笑いをこらえると息が先に漏れる癖も、三年間、いちばん近くで聞いてきた。受話口から聞こえたのは、紛れもなく夫の声だった。

『時間がない。そこに兄さんがいるんだろう』

「いるわ。今、あなたの棺を開けろと言っている。冬真、あなたは生きているの? 事故は何だったの? どうして私に連絡を――」

『質問はあとで全部話す。今は棺を開けないでくれ。火葬も予定どおりにするんだ』

「でも、あの中にいる人はあなたではないのでしょう? 誰なの。どうして、その人をあなたとして焼かなければならないの」

『澪、眠れない夜は、雨の数を数えよう』

 胸の奥を、冷たい手でつかまれた。

 それは、新婚旅行の夜に冬真が言った言葉だった。ひどい雷雨で眠れずにいた私へ、数えきれないものを数えていれば、そのうち朝が来る、と彼は笑った。誰にも話したことのない、二人だけの言葉だった。

『俺を信じてくれ。兄さんは、俺を殺そうとした男だ。今、棺を開ければ、次に消されるのは君になる』

「冬真、待って。切らないで」

『愛している、澪。だから、棺を燃やしてくれ』

 通話は切れた。

 私は携帯電話を耳に当てたまま動けなかった。愛しているという言葉を聞いたのは、事故の日の朝以来だった。それなのに、涙は出なかった。会いたいという思いより先に、なぜ夫は、見知らぬ遺体を燃やしてほしいのだろうという疑問が、胸の中で黒く膨らんでいった。

「弟だったんですか」

 朔也の声が、すぐ近くから聞こえた。

 私は答えなかったが、それだけで十分だったらしい。彼は警備員の手を振りほどくと、棺へ向かって一歩踏み出した。

「冬真は、生きていると言ったんですね」

「近づかないで」

「それなら、なおさら棺を開けるべきだ。生きている人間が、自分の代わりに誰かを焼けと言っている。その異常さがわからないほど、あなたは愚かじゃないでしょう」

「あなたが冬真を殺そうとしたと、本人が言いました」

 初めて、朔也の表情が変わった。

 傷ついたようにも、腹を立てたようにも見えたが、彼は言い訳をしなかった。ただ、長く息を吐いてから、私ではなく棺を見た。

「なるほど。あいつは、そこまで準備していたのか」

「どういう意味ですか」

「今の電話が本当に冬真からだったなら、あいつはあなたの愛情を使って証拠を燃やそうとしている。偽物の声だったなら、誰かがあなたと俺を争わせ、同じことをさせようとしている。どちらにしても、棺を燃やして得をする人間がいる」

「そんな理屈で、私は夫の声まで疑えというのですか」

「声ではなく、言われたことを疑ってください。愛しているから証拠を焼けなんて、少なくとも、俺の知っている愛じゃない」

 朔也がそう言った直後、礼拝堂のどこかで、くぐもった電子音が鳴った。

 一度途切れ、また鳴る。

 誰かの携帯電話だと思った参列者たちが、自分のバッグやポケットを確かめ始めた。しかし、三度目の音が響いたとき、私は音の出どころに気づいていた。

 棺の中だった。

 白薔薇に覆われた蓋の向こうで、携帯電話が振動し、木をかすかに震わせている。

 しかも、それはただの着信音ではなかった。

『冬真、電話に出て。どうせ仕事でしょうけど、五分だけなら待ってあげます』

 明るく笑う、自分の声。

 冬真に頼まれ、結婚して最初の誕生日に録音した、彼だけの着信音だった。

 義母が一歩後ずさりし、高遠は血の気を失った顔で棺を見つめている。朔也だけが目をそらさず、やがて私へ、静かに問いかけた。

「あなたの夫の携帯電話は、なぜ、あなたの夫ではない遺体と一緒に棺へ入っているんでしょうね」

 私は折れた白百合を床へ落とした。

「開けてください」

 今度は誰にも止められないよう、一語ずつ、はっきりと言った。

「その棺を、今すぐ開けてください」

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